添付録 ワイン考現学あるいは現象学 3 執筆者:BIBOERGOSUM

俺はやっぱ半端なのだ!

 ロラン・バルトが「ブリア=サヴァラン『味覚の生理学』を読む」の中で、味覚の問題に内包される哲学というものは貧困である、と論じておりました。勿論、日々彼方此方で展開される「その種」の話題には、傾聴すべき哲学は含まれてはいなしでしょう。ブリア=サヴァラン自身が「海の鮭が美味いか川の鱒が美味いかについては、王侯貴賢と漁師とは同等に意見を述べ合える」と書いております…その割には、そのご高説に反するグズグズが多いですがね。
 簡単に言えば、「この世には美味しいワインなぞ存在しない」んです。「どこかの誰かが美味しいと思うワイン」が存在するだけです。

 ワインって何なんでしょう。
 取り敢えずは、葡萄果汁の醗酵したものです。これは、いわゆる即自的という奴です。ですが、これでは自然醗酵した葡萄果汁と通例口にするものとが分けられません。ということで、醗酵したではなく、「醗酵させられた」あるいは「醗酵管理を受けた」葡萄果汁ということになるでしょう。これで向自的まではたどり着いたかもしれません。これでも未だ現存在としてのワインを表現していません。実際に存在するワインというのは、どこかの場所で誰かが栽培した 葡萄を、そのまた誰かが醸造し瓶詰めしています。ワインの評価、値段の違いも読みこめてはいません。
 類概念としてのワイン、総体としてのワインを語ったところで、現実の存在としてのワイン、個別としてのワインへと敷衍は出来ません。が、無理に押込めれば「流通商品として、栽培管理、醸造管理を受けて、存在せしめられたもの」ということになるんじゃないでしょうか。
 この辺りを読みこんでないと、「シャブリは何とかだ…」と無反省な議論になってしまいす。個別は総体を内包し、総体は個別を媒介として認識し得る訳なんですが、シャブリというワインについて、存在するのはある極めて具体的な個別なんですよね。
 ごちゃごちゃ言ってますが、早い話し、超越論的認識としての、即且つ向自的概念としての「ワイン」を的確に提示しきれていないわけです、これが。若い頃からの強迫観念なんですが、「言語によって明晰に区別されない区別というものは、存在しない区別だ」というヘーゲル・オジさんのあの怖い顔が迫ってくるんです、こういう状態のときは。取り敢えず、本日はここまでで、残りはもう少し七転八倒してみます。

1999/1/11

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